1. 仮構される死と穿たれる距離

2006年に公開された『父親たちの星条旗』/『硫黄島からの手紙』以降、クリント・イーストウッドは(先の2本を含む)計14本の長編映画を監督しているが、そのうち10本が実話を基にしている。タリス銃乱射事件を描いた『15時17分、パリ行き』(2017)に至っては、事件発生のわずか2年後に、実際の事件の当事者をキャスティングするという異例の方法で制作されており、そこには映画を現実に「似せる」ことへの過剰なまでの執着が見てとれる。問われるべきはそのようにして作られた映画はいかにして陳腐な再現VTR以上のものになるのか、さらにはそれを眺める我々の顔は、生に安住しながら異国の人の死に驚いたフリをしてみせるワイプで抜かれた芸能人たちのグロテスクな表情とどれほど違うのか、そのような問いだ。映画とは現実から断片的に切り出された素材の寄せ集めを指すのではなく、視聴覚的媒体でもってその手前側にいる肉体に対して<世界>を立ち上げるよう強制する装置のことを指す。フィクションかドキュメンタリーかの二者択一はどうでもいい。現に生きられているようにみえる現実と装置によって立ち上げられた<世界>との距離こそが重要なのであって、イーストウッドが2000年代に入ってから手がける諸々の伝記映画はその距離を測定するための実験として捉えられる。『アメリカン・スナイパー』(American Sniper, 2014)はその距離を二国家(アメリカ-イラク)間の距離として劇中へと折りたたみ、戦争という自由意志を超えた地点で伸び縮みする距離の中で最終的に死へと至る主人公=クリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)を描いた映画であるとひとまず圧縮記述できる。そのような映画を制作するもの/眺めるものたちに課せられるのは、クリス・カイルという一個人をアクチュアルかつマテリアルな死へと導いた国家間の距離の伸縮運動(=戦争)を自らの身体において操作可能にするための手立てをモデリングすることだ。イーストウッドの作品は常に運命論的な気配を多分に孕んでおり[1]、それらはプロットのレベルのみでなく、諸々の形象的な類似と差異を通じて緻密に彫琢=展開される[2]。そのため、最後に起こることはもはや変えられない運命として最初から徴づけられていながらも、運命論的時間は神や「作者」といった超越的一者の元へと短絡されることを拒み、自由意志との拮抗関係に入る[3](この拮抗関係は部分的には、撮る<私>と撮られる<私>を自身の身体/視線の中で二重化してきたイーストウッド自身に由来するだろう[4])。以下で記述されるのは、現実において既に起こってしまった死を遡行的に(かろうじて)書き換えようと試みる制作者/分析者たちの痕跡である[5]

映画の原作であるクリス・カイルの自伝American Sniper: The Autobiography of the Most Lethal Sniper in U.S. Military Historyが出版されたのは2012年の1月2日であった(邦訳『ネイビー・シールズ最強の狙撃手』)。同年5月24日、ワーナー・ブラザースがブラッドリー・クーパー主演・製作のもとでこの自伝を映画化する権利を獲得したと発表する。しかし、2013年の2月2日、そのクリス・カイルが元海兵隊員によって殺害される事件が起きる。その後、一時はスティーヴン・スピルバーグが監督を務める予定であったようだが、結局スピルバーグは製作から降りることとなる。最終的にクリント・イーストウッドが監督を務めることが発表されたのは、2013年の8月21日であった。カイルの自伝出版→映画化へ向けた企画のスタート→現実のカイルの死→イーストウッドによる映画化という製作の推移を時系列に見れば、現実に起きてしまったカイルの死を映画に取り込まざるを得なくなった事情が見えてくる。The Most Lethal Sniperであったカイルは他者を死に導いただけでなく、自分の死をも映画に刻み込むこととなった。

『アメリカン・スナイパー』には、二重のかたちでカイルの死が作品に組み込まれ、それらが接合されている。ひとつは映画本編(?)のラストで、タヤ(シエナ・ミラー)が、カイルと元海兵隊員が銃を撃ちにいくのを見送り、画面がフェードアウトしていった後に示される「クリス・カイルはその日、力になろうとした元兵士に殺された」という文字情報によって表象される「映画における死=事後的に仮構された死」である。もうひとつは、その後にスタッフ・クレジットとともに示される実際の映像を使用して悼まれる「現実の死」である。あまりに皮肉なことだが、現実のカイルの死がなければ、『アメリカン・スナイパー』がここまでの強度を持った作品として存在していたかどうかわからない。現実のカイルの死があったがゆえに『アメリカン・スナイパー』は映画として完成したとも言えるし、『アメリカン・スナイパー』という映画が現実のカイルの死に決定的な意味を事後的に付与したとも言える。「現実のカイルの死」と「事後的に仮構された死」という二つの死は、互いが互いに影響を与え、『アメリカン・スナイパー』という一つのテクストを構築している。映画ラストにおいて圧着される二つの死の差異、現実と<世界>とのあいだに穿たれた耐え難い距離を、制作者/分析者たちはいかようにして受け止めうるのか。本論が『アメリカン・スナイパー』という映画の詳細な分析を通じて扱うのは、常に何者かの死に対して遅れてやってくることしかできない撮るもの/観るものの倫理にかかずらう問いである。

2. 父=戦争の呪いが運命を駆動する

『アメリカン・スナイパー』における悲劇的な因果を駆動するのは父親による呪いだ。映画序盤のカイルの幼少期のパートにおいて、いじめられた弟ジェフと兄カイルが並んでテーブルに座る中、二人の父親は子供たちに言う――「人間には、羊、狼、番犬の3種類がいる」、「弟が誰かに襲われ、いじめられたら、やっつける許可を与える」。羊-狼-番犬という明快かつ寓話的な図式の設定は映画におけるあらゆる物事の境界を設定する。羊=気弱な弟=アメリカ軍の歩兵たち、狼=いじめっ子ども=イラクのテロ組織という等号関係は、いとも簡単に見出され、番犬=クリス・カイルは高所から狼を狙撃し、羊たちを守る。しかし、父親によって設定されたこの図式は映画劈頭において、すでに破綻している。スナイパーとして自軍の侵攻を見守るカイルは、爆弾をもった女性と子どもの存在に気がつく。スナイパー越しのカイルの視点ショット、爆弾を持った女と子ども、スナイパーを構えるカイルの顔を捉えたショットが、交互に示されるなか、画面のサスペンスは、子どもを撃つのか撃たないのかという点に集中される[6]。だが、この場面は文字通り宙につられ、子ども時代のカイルと父親の狩猟の場面へと繋がれることになる。この場面において特筆すべき点は二つ。まず、子どもという形象を介して撃つ(shoot)ものと撃たれる(shot)もの、つまり主体/客体、能動/受動が短絡される点。もう一つはフラッシュバック後の11のショットにおいて父親の顔が常に影によって覆われているため、この父親をカイルと混同する可能性が確率的に生じる点。

まず前者の子どもの問題系について。『チェンジリング』や『ミスティック・リバー』に明らかなように子どもの類似は2000年代以降のイーストウッドにおいて一つのオブセッションをなしているが、『アメリカン・スナイパー』におけるそれは一つの極点をなしている。カイルと妊娠中の妻タヤが交わす自身の子どもをエイリアンに例える不気味な会話、通院の場面でリアリズムの範疇を超えて異様に膨れあがったタヤの腹を見れば明らかなように子どもは祝福されるべきものではなく、もはや異物として表象される。なぜか。先の我々の記述はその答えをすでに示している。「子どもという形象を介して」と書いたとき我々は子どもが子どもであるというそれだけの理由で類似していることを前提としている。この前提は国際人道法をはじめとする国際的かつ普遍的な倫理観に由来する。番犬=カイルは羊と狼の差異を見分けるという友敵の論理をもとに動く以上「国際的かつ普遍的」に類似している子どもは、その論理のクラッシャーとして機能する。しかし、そもそも羊/狼、友/敵の区別は何をもとに為されるのか。見た目、そう見た目だ。肌の色、目つき、髪質、服装、あるいは挙動。カイルは見た目上の差異にもとづいて敵を判断する。では、そもそもなぜカイルは戦争に参加したのか。その理由は画面上では酷くおざなりに説明される。テレビに映し出されるケニアとタンザニアでの米国大使館爆破のニュース、その次のショットでもうカイルは新兵募集所に赴いている。彼はテレビのフレーム内に映し出された「アメリカ」への感情移入、共感によって戦場へと駆り立てられる。「私はアメリカ人で、フレーム内で殺されたのもアメリカ人であり、だからこそ私は憤り、戦いを決意する」。そこで働いているのはフレームの手前の私とフレームの中の彼らを「アメリカ」という国籍を媒介させて、類似を見てとる模倣の能力だ。カイルがテレビを見るショットは劇中で5回反復される。2回目は9.11テロの映像、3回目はムスタファによる米軍殺害のビデオ、4回目は4度目の派遣での砂嵐からの脱出後、アメリカ国内のどこかのバーでテレビのバスケの試合を見ている。そして、5回目はもはや何も映ってないテレビをボーッと見つめている。カイルを戦場へ駆り立てたのはフレーム=境界を超えて類似を見てとる能力だが、戦場で必要とされるのは友/敵の差異を見分ける能力だった。類似と差異、これは戦争における領土拡大(存在するはずの差異の抹消)と境界確定(存在するはずの類似の抹消)の運動に対応し、カイルが英雄たりうるのは、その目に戦争の二つの根本原理を宿しているからだ。だが、二国家間の戦争が個人の意志を超えた地点で自動的に終わるのに対し、カイルはスコープを覗くたびに逡巡する。どこまでが類似でどこからが差異なのか、子どもはその判断を宙吊りにする。妻のお腹の中にいる自身の子どもが男の子だったと報告を受けた直後に銃撃をうけ、彼のすぐ側でイラク人の男の子の頭蓋にドリルで穴が開けられるとき、妻のカイルを呼ぶ声はイラク人の母親の口腔から谺する。彼はあたかも自分の子どもを守るために銃を取るかのようだが、そのとき番犬が彼を襲うのは果たして偶然か。

ここまで概観してきた子どもの問題系がテクストレベルの差異/類似を彫琢=展開するのに対して、後者の父親の問題系はそれらをテクスト手前の我々=鑑賞者/分析者へと跳ね返す[7]。銃撃音と共にカイルの幼年期へフラッシュバックするが、恐らく一部の鑑賞者はそのフラッシュバックをフラッシュフォワードと誤認する。この誤認は父親が直前にライフルを構えていたカイルと極端に類似していることに由来する。実際には、鹿を仕留めた直後'You got it’とつぶやく際の父親の目元を注視していた鑑賞者はその男がカイル(=ブラッドリー・クーパー)ではないことを正確に認識しうるが、その後は常に目元が陰で覆われるため、ほとんど識別が困難になる。差異の失認は鑑賞者の円滑な物語理解を阻害する。父親による狩りの教えは鑑賞者への警告であり、我々はカイル同様に差異と類似の線引きを慎重に為すよう要請される。カイルは差異/類似を彫琢=展開する制作者/分析者のテクスト内への埋め込みであり、ここまでの分析は全て我々がカイル同様にテクスト内の差異/類似を読み取ってきた結果としてある。そこでは、我々分析者とカイルの再帰的な関係性がテクストそれ自体と分析それ自体を推進させる。しかし、そうであるが故に我々もカイル同様にもはやどこまでが類似でどこからが差異なのかの線引きを見失いつつある。羊/狼、アメリカ/イラクの境界をもはや見失ってしまったカイルが父親と同じベルトの持ち方をしながら自身の似姿であったはずの番犬をぶちのめそうとするように、類似と差異の区別を見失った我々の分析はカイルを正確に悲惨な運命へと導いている。映画の最後、カイルを殺しにやってくる退役軍人の顔は、我々の目にはアメリカとイラクの中間地点らしき匿名の空間で“Fuck this place”と呪詛の言葉を吐いた弟ジェフの顔にあまりにも類似しているようにみえてしまう。羊/狼の判別ができなくなった番犬は守るべき対象であった羊に殺される。「運命というものは決して取り返しがつかない」とイーストウッド本人が述べているが[8]、カイルと我々分析者の結託関係が告げるのは悲劇的な結末であり、尚且つそのような結末は劈頭から既に決定されていたかのように見えてしまうという事実だ。

しかし、一度だけカイルと我々の結託関係が強制的に解かれる瞬間が劇中にはある。ムスタファとの対決の場面、カイルがスコープを覗き、我々も強制的にその視線に同一化させられるが、そこには漠とした市街地が広がっているだけで何も見るべきものは映っていない。にもかかわらず、カイルは‘It’s him’と呟く。彼の目には我々には見えないものが映っている。そこから映画は全面的な不可視に覆われはじめる。砂嵐がハリウッド映画に典型的なラストミニッツレスキューを相対化し、類似も差異も機能しなくなるまで世界をベージュ色の砂が覆う。転倒しもがくカイルは首輪に繋がれた番犬にまたしても「似ている」が、しかし彼はその首輪から解き放たれたかのようにワゴンから伸びる手を掴み、生還する。いったい手を差し伸べたのは誰なのか。類似と差異の識別不可能性によって駆動する地獄めく回路から救出されるわずかな可能性がここには宿っている。

3. 母=家族の視線が運命を見出す

父親が息子たちに三角形の教えを説くとき、そこから排除され、彼らを眺めるものがいる。母だ。訓練の際に兵隊たちのあいだで交わされるホモセクシャルな視線を見れば明らかなように戦場は男たちの世界であり、女たちはそこから排除され、日常を過ごしながら戦場から男たちが「戻ってくる」のを待つ存在として規定される。カイルにとって最初の殺人は母と子どものカップリングだった。そのとき、母と子どもを殺されるべき「狼」と見做すことを可能にするのは、故郷にいる妻の忘却である。仮にこのとき、カイルがそこにいる親子を自身の妻と産まれてくるであろう子どもとに「類似」させていれば、この最初の射殺それ自体が可能ではなかっただろう。日常=故郷を抑圧することが類似/差異の識別を可能にするストッパーとして機能する。つまり、父親が設定する羊-狼-番犬という図式は母親を除外することによって初めて機能している。そこには前説で見たのとは別の奇妙な結託関係が存在する。母(妻)は抑圧されることによって、父親の設定する図式を上手く駆動させる。それゆえ、その存在は常に両義性を孕む。父親の図式が上手く機能してさえいれば、カイルは類似/差異、羊/狼、アメリカ/イラク、諸々の二項の距離を保てたはずだ。しかし、であれば故郷にいる妻は夫から忘却され続ける。だが当然、妻は夫の帰還を望む。タヤがカイルに「戻ってきて」と望むとき、彼女は夫の帰還を望みつつ、知らずのうちに彼を呪っている。抑圧されたものは回帰する。ビグルスは撃たれる直前に結婚指輪について話していた。マークを殺したのは母親が読み上げる手紙だ。戦場において抑圧されるべきもの(=女)が回帰するとき、常に男たちは致命的な状況にさらされる。そして何よりも、カイルを殺しにやってくるのは、最初にカイルが殺した母親と子どものカップリングだ。父親の図式が類似/差異、領土の拡大/画定といった空間的次元を規定するのに対し、母(妻)の形象はその図式自体を根底から支えたり揺るがせたりする時間的次元、つまり抑圧と回帰を指定する。とりわけカイルの妻、タヤの描かれ方はその時間的システムを露骨に強調している。

バーで自身をナンパしてきた男に対し「指輪外したのを見てたわ」と指摘する場面や、船上の結婚パーティーでカイルの左耳の汚れに気づく場面に明らかなように、タヤは下手をすればカイル以上に観察眼の鋭い人物として描かれる。スナイパー訓練の際に「呼吸や鼓動の狭間をつかむこと」の重要性を説かれるが、実際に鼓動を把握しているのはタヤだ。同じく結婚パーティーの場面、仲間たちの様子からカイルの6週間の派兵が決まったことが示される。「何も心配いらない。予定通りだ」というカイルだが、タヤはカイルの胸に手を当て「心臓の鼓動が激しいわ」と我々には不可視かつ聞くことのできない音を確実に感じとっている。カイルの一度目の派遣からの帰国後、タヤとカイルは自身の妊娠の検診のために病院に行く。妊娠しているタヤが子どもという他者の鼓動を自身の体内から感じていることは言うまでもないが、タヤは子どもの検診のみならず、医師に頼んでカイルの血圧を測ってもらう。このような視覚のみならず触覚や聴覚を通じた他者との接し方に、遠くから対象を射殺するカイルが従う戦場の論理とは真逆のケアの論理を見出すことは容易だが、焦点を当てるべきはむしろその行動の時間的含意だ。カイルが血圧を測られた直後の車内で、カイルがタヤに「ハメたな(You sabotaged me back there)」と言うことから、タヤは事前にカイルの異常に気付き、その確認のために医師にカイルの血圧を測るように頼んだことが推測される。タヤは身体的接触から予測を行い、その行動の意味はカイルからは遡行的に確認される。つまり、タヤの行動(あるいは視線)は未来への予感を孕みつつ、しかしその予感は物事が決定されてしまったあとから遡行的に初めて確認される。

このことは、タヤがカイルの弟、ジェフに向ける視線に着目したときに決定的になる。前述の戦場のパーティの場面に戻ろう。タヤがカイルに「心臓の鼓動が激しいわ」と述べた直後、カイルは「弟も志願したからだ」とオフの空間にいる弟ジェフを見つめる。タヤもジェフがいるであろう画面左方向に顔を向ける。カットが変わり、女性とダンスをしているジェフが捉えられる(ジェフはカイルとタヤの方を見ていない。ジェフの相手の女性が誰かは作中では示されないし、この場面ではこの女性の顔はほんのわずかにしかわれわれ鑑賞者には視認できず不気味である)。ふたたびカットが変わり、タヤとカイルが別アングルから捉えられる。カット頭ではタヤとカイル二人ともの顔がフレーム内におさめられ、二人のジェフに対する視線が確認できるのだが、その後キャメラがわずかにタヤに寄る。これによって、タヤのジェフへの視線が強調されるとともに、カイルの目を含めた顔上部はフレームで切られ、画面外に追いやられてしまう。つまり、カイルのジェフへの視線は消去され、タヤのジェフへの視線のみが残り、残ることでそれが際立つ。次のショットはふたたびジェフと女性が捉えられ、その次のショットでもカイルの顔上部はフレームの外に追いやられており、タヤのジェフへの視線が再度示される(ただしその視線はわずかに提示されるだけだ。すぐにタヤはカイルの方に視線を戻し、二人はダンスに戻る)。映画において視線のショットは次のショットを期待させるという点で常に未来予示的だが、ここでのタヤの視線は、それまで提示されてきた諸々の文脈へと回収されずに滞留する。この船上の場面以降でジェフが登場するのは、カイルの2度目の派遣出発時に二人が再会し、ジェフがカイルに“Fuck this place”と吐き捨てて、映画から退場していく時だ。その言葉にカイルは虚を衝かれ、狼狽する。船上で滞留していたタヤ視線はここで回帰し、カイルと我々よりも先にその不穏さを予知していたことが、遡行的に明らかになる。

その視線の魔は映画のラストにおいても機能する。映画のラスト、カイルが元海兵隊員と出かけるのをタヤが見守るシーン。「行ってくる」「愛してる」「俺もだ」とカイルとタヤが言葉を交わし、カイルが玄関から出かけてゆくとカットが変わり、家の外側から玄関先で夫を見送るタヤがカメラに捉えられる。次のカットに変わると、デニムジャケットを着、キャップを被った男が我々の目に飛び込んできて、カメラは早いとも遅いとも言えない絶妙な速度でこの男にズームアップしていく。この元海兵隊員の男が弟ジェフに似ているように見えてしまう事態についてはすでに述べたが、ここで見逃すべきでないのはタヤの視線によって画面の連鎖が構築されていることである。このショットの後、ふたたび玄関先のタヤのショットに戻る。タヤが玄関を閉めていくと、ふたたびカットが変わり、カイルと男が挨拶を交わす様子が示されるが、その後再度、玄関先で夫を見送るタヤのカットに戻る。もう二往復、見つめるタヤと出発していくカイルと男が画面で示され、フェードアウトで映画は閉じられる。ここでもタヤの切り返しを欠いた視線は滞留し、ジェフとカイルを殺した海兵との類似を強化している。

タヤの予示的かつ遡行的な(およびそこに代表される母=妻の抑圧と回帰の)システムは映画というメディウムが本来的にもつ運命的な時間性を強調する。映画は直線的かつ不可逆的、連続的な時間進展を前提としており、そのような鑑賞においては何かしらの違和感はその連続性の中で抑圧され、ふとした場面で回帰する。そして、そこで鑑賞者はようやく自身が感じた違和の意味に気づく。映画の時間進展は、既にして制作者による恣意的な操作の結果としてあるため、事後的にそれらを眺める鑑賞者/分析者による操作可能性は低く、誰もがカメラを手にし、いくらでも映像を操作できるこの時代において、モダニズムの鬼子たる映画はその操作可能性の低さをかろうじて自らの領分としている[9]。前節で見た父親の規定する論理が我々=分析者とカイルを結託させ、映画によって投射される<世界>の論理へと強制的に巻き込むのに対し、母に象徴される時間性はむしろ我々がその<世界>へとコミットできないことを強調する。二つのシステムは、劇中においてはカイルを地獄へと連れ立つ両輪として駆動する(戦争によって領土を拡大する国家の論理と子を産むことで共同体を拡張する家族の論理は共働する)一方で、スクリーン手前側に位置する我々=分析者に対しては<世界>への巻き込みと引き剥がしを規定する相反するパースペクティブとして機能する。つまり、父と母、それぞれの論理はカイルの死への同調を強制すると同時に、その死が誰にとっても共有され得ないものであるという元も子もない事実を示す。ここから試みられるのは、その<世界>が提示する非情な(それでいて真っ当な)論理に則りつつ逆らうことである。

4. 憎悪と性愛が運命を二重化する

ここまで検討してきた『アメリカン・スナイパー』における映画を規定するシステム、つまり差異/類似、あるいは抑圧/回帰といった諸々のカップリングは澱みなく映画それ自体をカイルの死へと推進させ、尚且つ我々=分析者が取るべきパースペクティブを規定しているようにみえる。しかし、実際にはそれらのシステムはカイルの4回目派遣時にかすかな綻びをみせている。つまり、我々が映画のシステムに可能な限り内在することによって、取り出したパースペクティブでは、説明のつかない事態=バグが4回目派遣の場面には横溢している。それは、映画を規定する父と母の、国家と家族の、空間と時間のシステムにあらかじめ内在していたバグであり、そしてそのシステムに則って映画を分節化してきた我々の分析に内在するバグである。バグとはスクリーンの表面を流れる諸々の形象を一定の論理に則って安定させるために、スクリーン手前側の肉体からその奥へと投げかけられる紐帯のほつれを指す。我々のここまでの分析はそのわずかなほつれを見つけだすための仮設作業であり、ここから現実と<世界>の距離を測定し、書き換えるための作業が開始される。以下に4回目派遣時に見られるバグと、それがバグとして見出されうる理由を時間進展順に列挙する[10]

  1. ビグルスの死が伝言で伝えられ、その死がフレーム外に追いやられる。理由:フレーム外の死は映画ラストのカイルの死のありようを先取りしているが、ビグルスとカイルとの繋がりはこれまでの分析の範疇では不明である。そもそも、ビグルスというキャラクターが鑑賞者にとって前景化するのは目を狙撃された後になってからだ。
  2. タヤがカイルの電話に出ない。理由:タヤとの電話は抑圧と回帰のシステムを象徴的にあらわすものとして、劇中で幾度も反復されるが、その電話が繋がらないことの意義は前節で我々が提示した枠組みの中では、検討しえない。
  3. カイルがランチャーを手にした子どもを撃てない。カイルがスコープ内に子どもを捉える場面は映画全体において、3度反復される。1度目は映画劈頭、2度目はフラッシュバックで宙に吊られていた劈頭のショットがふたたび現在時で反復される場面、そして3度目が4回目派遣時のこの場面。しかし、この場面において、カイルはランチャーを肩にかけた子どもを撃てないばかりか、ランチャーを地面に置くように祈る。